ある雑誌の連載で、5年前に亡くなった俳優・菅原文太氏について調べている。その故郷・宮城県栗原郡(現・栗原市)は、岩手、秋田の両県と境界を接する宮城県のもっとも奥まった“角地”にある。年明けから何度か通ったが、冬場には真雁がV字型に隊列を組み、苅田の上を飛んでゆく美しい風景が印象的だった。


 この土地は、やはり芸能界で活躍する著名人をもうひとり生んでいる。脚本家・演出家の宮藤官九郎氏だ。現在放映中の大河ドラマ『いだてん』は日本の五輪史をたどる氏のオリジナル作品で、戦国や幕末の小説のドラマ化が多い例年とはかなり毛色が違っている。ネットニュースでは「視聴率ワースト」などと酷評されているが、やはり視聴率が低かった『平清盛』(2012年)と同様、私個人は“世間に見る目がない”だけで、平均的大河作品よりずっと挑戦的で質が高いと思っている。


 ちなみに1980年に菅原文太氏が主演した『獅子の時代』も、山田太一氏が架空の人物を主人公に創作した前例のない大河作品で、旧会津藩士から自由民権運動に身を投じたアウトローの人生から、明治期の暗部を照射した画期的なものだった。


 思えば『いだてん』の製作が発表された時点では、東京五輪への“国威発揚大河”に違いない、という懸念が多々聞かれた。NHKの一般の報道でさえ、「国威発揚」を堂々と五輪の効用に挙げていたからだ。しかし、前回放送の『いだてん』では、ナチスによる露骨なプロパガンダ五輪となった1936年・ベルリン大会のグロテスクさがはっきりと描かれた。祭典を“国威”に利用するリスクを可視化してみせたのだ。


 そんなわけで、文太氏と宮藤氏という同郷の2人には、相通ずる反骨精神を感じるわけなのだが、週刊文春に『いま なんつった』という随筆連載をもつ宮藤氏は今週、『いだてん』で主役「田畑」とヒトラーとの邂逅を急遽描くはめになった経緯に触れている。“幻の1940年東京五輪”招致協力への謝意を告げるため、スタジアムでばったり会ったヒトラーに「田畑」はしどろもどろになりながら、「ヒトラーさん! ナニの件ではアレしてもらってダンケシェン!」と通訳なしで口走る。それでも意を汲んだヒトラーから握手の手を差し伸べられるのだ。《我ながら思い切った台詞だなぁ》と宮藤氏は、この場面の奇天烈さを自ら嗤っている。


 今週の文春連載では、もうひとつ『出口治明のゼロから学ぶ「日本史」講義』に目が留まった。昨今、あまりに目立つ“歴史改竄”の風潮に、私自身は素人の“歴史通”を警戒するようになっていて、本欄でも以前、この連載に冷ややかに触れたことがある。ただそれでも、出口氏はアカデミズムの人らしく、語りは抑制的であり、適当な「新事実」「新解釈」をぶち上げたりはしない。あくまでも“解説的読み物”の枠内で、専門家の研究を紹介する姿勢には、好ましさを感じる。


 今週のテーマは『「武士道」の幻想』。それによれば、武士道という言葉は、新渡戸稲造が外国人向けに『武士道』を書く1899年以前にはほとんど見られなかった言葉であり、有名な佐賀藩『葉隠』の「武士道とは死ぬことと見つけたり」も、よく読めば「死んだ気になって無心でやれ」というサラリーマン的処世術に過ぎないという。甲斐武田家『甲陽軍鑑』の言う武士道にしても、「勝って生き残れ」という教えだ。というわけで、「主君のために死ね」などという武士道は、明治以後の《つくられた虚構です》と出口氏は解説する。大声で唱えられる暴論・珍論に、ちょこちょこ・やんわりとファクトで釘を刺す。そんな“小骨”のような表現に、私はまだ希望をつないでいる。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。